受験時代を振り返って

本日は共通テストの一次試験というものがあったみたいだ。

僕の時代でいうセンター試験のかわりになるものみたいだ。

 

僕は高校時代勉強が好きではなかった。勉強ができるというわけではなかったし、部活もやっていて忙しかったので時間がある時はもっと心休まることをしていたかった。

 

12月末にはセンター試験の模試があり、そこではひどい点数を取り12月いっぱいは勉強をぱったりやめた(僕は物理・化学・倫理政経を選択していたのだが、どれも50点はいってなかったと思う)。

 

12月はネットでずっとアニメを見て新年を迎えるような過ごし方をしていた。1月からセンター過去問を解き始めた(赤本は2月から)。大学受験はかなり適当に取り組んでいた。受けたのは4校だけで、ここに入れたらかっこいいなと思う有名大学だけをよく調べずに受けた。その中の1校だけ合格し、その大学に通うことにした。

 

今思うとよく受かったなという感じがするし、妹にも「君、あんなに勉強してなかった気がするのによく受かったね。」というようなことを言われたのを覚えている。

 

受験が終わった当時は、とりあえず進学先があって安心した気持ちとそこまで必死に勉強せずに大学に受かってラッキーだなという気持ちがあった。

 

今当時のことを振り返ってみると、当時の僕とは気持ちがだいぶ違う。もちろん現役で進学できて良かったし、その結果出会えた人たちもたくさんいた。浪人したからって必ず結果が出るとは限らない。僕は「悪くない選択」をしたと思う。

 

ただ、今の僕から見ると「良い選択」をした、と自信満々に言うことはできなくなっている。当時は完全に「良い選択」だと思っていたものがである。

 

僕は何か物事に対して、「これだけは全力で取り組んだ!」と自信満々に言うことができるものがない。中学の合唱コンクールであったり、高校の文化祭・運動会、部活、勉強などもろもろだ。全てにおいて「そこそこ頑張れば良いか」と言うような気持ちで取り組んでいた。もしかしたらそこそこしか頑張ることができない人間なのかも知れない。

 

もちろんそのことが僕の今の人生に大きな害を与えているかといったらそういうことはない。そこそこしか頑張らない人でもどこかしらの場所には行き着く。ただ、今まで人生で何かに全力で取り組んだ経験のある人は、大体僕にないものを持っていることが多い(情熱であったり精神力であったり責任感であったり)。

 

今も仕事をしているが全力で取り組んでいるかといわれたら、お世辞にもそうとは言えない。昔は高校に入ったら、大学に入ったら自分が全力で打ち込めるものや将来やりたいことが見つかると言うようなことをよく聞かされていた。もう社会人になった。自分のやりたいことはいまだに見つかっていない。そこそこで良いと思っている人間にはやりたいことが見つけられないのかも知れない。

 

たまに勉強だけできても社会の役に立たなかったら意味がない、というようなことを聞く。なのにスポーツだけできても社会の役に立たなかったら意味がない、というようなことは聞かない。頑張ることが違うだけなのに何故か勉強の方だけ悪くいわれることがある気がする。確かに知識だけあっても社会の役に立たないことはあるかもしれないが、勉強ができる人は努力ができるひとなので、勉強出来ない人よりも活躍できる場面はたくさんあるはずなのである。

 

高校時代にもっと全力で勉強をしていたら何か変わっていたのだろうか。すこしもやもやがある。このもやもやの数だけ人生はを損する。もう24だ。このもやもやををこれ以上増やしてはいけない。今やるべきことを全力でやらないといけない。

 

だから、とりあえずゲームをつけようと思う。まずは目の前のゲームに全力を。